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20240816
■終戦記念日
昨日は終戦記念日でした。
亡き母が生前書いていた
「私の8月15日」という文章。
よかったら読んでください。
🌻🌻🌻🌻🌻
8月14日の夜、群馬、埼玉、千葉県をB29爆弾機が襲った。
雷鳴に似た爆音と地上からのサーチライトが機体の腹を写し、
天地を貫くかのような閃光が私たち家族の仮の住まいである小寺を覆うと5歳と2歳の妹達は怯え、声を抑えて、泣いて母にしがみついていた。
「3月10日以来泣くのよ」私が寝返りをするたびに母はいった。
3月10日とはあの惨たらしい東京大空襲のことである。
私は一人、榛名に縁故疎開をしていたので東京大空襲がどんなものであったかを知らない。
続けて母が嘆くように語りかける。「助かったのは奇跡のようなもの」「今日は無事であすはわからない」「お米もない。
戦災者は交換する衣類もない」
力なく、母は何度も同じことを繰り返す。
当時12歳の私は、「うんうん」と気のない返事をしながら「お米がないのだ。」と悟り、疎開先の叔父の家で「力が付くから食え」といった叔父を思い出した。
同時にチルチルミチルの寓話が頭の中を支配し、母の言葉を遠ざける。
「うん、うん」と答えながら、母の変わり様と親元に戻って以来、会話がない親子になっていたのを思い知った。(私の疎開以前の母は、明るく快活でお洒落な母であった。
ところが大空襲で焼け出され、命以外の全てを焼失して以来、どことなく頼りなく、愚痴っぽくなってしまった。)
母はその後もあの言葉を繰り返した。「今日は無事でも、明日は判らない」あの空襲が母をここまで変えてしまった。
ふと気がつくと一間で一緒に寝ているはずの父や兄の寝息が聞こえない。(私と母の会話を聞いているのだろうか?)
私は、ご飯を遠慮しなきゃだめなのかな?と思うとジーンと鼻の奥が痛んだ。
親元に戻って以来、母に距離感を感じ素直になれない私は、「うん、うん」「私変わるよ」
「うん、うん」と虚ろな返事を繰り返しながら何時の間にか眠りにつく。
終戦の日
「暑い・・」汗が首に巻き目覚めた。風鈴の短冊もだらりとさがり、蝉の声すら無い。
普段なら漂う味噌汁の匂いもせず、いつもと違う空気にすぐ気づく。
私の朝寝坊の処為だけでもない。兄はラジオのダイヤルを調節しているが、ピー。ガー。と雑音だけが響き、父母の苛立ちがはっきりとわかる。
「随分寝坊をしちゃったけど、まさか私の処為?」兄に恐る恐る聞いた。「正午に玉音放送があるのだが、妨害電波に悩まされこの始末。」
そうしている内に「正午だぞ」「もっと頑張って」「なんで今頃」親族や疎開の仲間たちが勝手に言葉を足しながら、私たちの部屋に集まった。
それぞれ玉音放送を聴こうと試みたらしいが、妨害電波の仕業かうまく受信できず、性能の良いラジオを所有する私たちのところへ集まってきたのだ。
ラジオのむこうでやっと陛下の言葉が聞き取れた「・・・堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」集まった人の中から叫びに似た声が漏れる。「敗戦の布告だ。」と、言いながら子供達は部屋から出され、荒々しく障子が閉められた。
「戦争は終わったのだ。」
私は、障子が閉められた瞬間、昨日までの暗い毎日が終わったと直感的に思った。
大人たちの心配とは別に、空襲のない穏やかな日が訪れることを幼い私は期待していた。
そして、私は薬師堂の欄干に背を預け日暮れまで時間のたつのも忘れて本を読み耽った。
鬼子母神についてであった。普段なら子守や手伝いに追われるのだが、この日だけは、自分が本のなかに入り込んだと錯覚するくらいの時間軸が違っていた。
8月15日のあの日、盆の送り火は麦わらの香ばしさを境内に漂わせていた。その香りは私にとって平和の象徴ともいえるほど穏やかであった。
63年の長い月日を経ても当時の子供だった私の心はまだ衰えを知らず、同じ言葉を何度も繰り返していた母の気持ちに想いをはせる。極限状態の日々で変っていった母を、疎開から戻った私は愛おしく思えた。
少しの哀れみも混じりながら。
あまり知られていないことだが、空襲の後、心中する家族も少なくなかった。
そんな日常の中で、母はあの言葉を何度も繰り返していた。
それが生きる精一杯の努力だったかもしれない。
お母さんありがとう。
🌻🌻🌻
これを書いたのは、母が63歳の時。
私は、その年齢を超えて
戦争を体験した、
感受性の強い少女時代の母を
心の内で
抱きしめています。
……………………………………
「自分が正しい」
「相手が間違い」は、小さな戦争の始まりです。
お互いの違いを受け入れて、
「優しさの連鎖」
で、皆さんのお仕事も良い繋がりが生まれることを、お祈りします。
文責)野口悦子